こんにちは、へんりー(@a_henly)です。
世間はお盆休み!ですが私は今日も出勤です…。
時間があったのでeラーニングを受講していたのですが、その中で気になった名言を紹介します。
『市場シェアは過去に関する指標であり、顧客満足は将来に関する指標である』ーフィリップ・コトラー
過去の指標を見ることと、将来の指標を見ることどちらが大事かと言う観点に気づかされる言葉です。
顧客満足を満たすということは未来志向を常に持っておくということですね。
このフィリップ・コトラー氏はSTPや4Pと言われるマーケティングでよく使われるフレームワークを提唱された著名な方ですので、また本を読んでみようと思います。
この言葉自体も良いと評価されたからこそ、多くの人の目に止まる言葉になったのでしょう。
ただ、私はその前段としてこういった言葉や文章、物語、総称してコンテンツとします。
コンテンツはどうやってその名言、名作たる地位を確立したのか気になって調べてみました。
時間があると人はくだらない疑問を膨らませる
そもそもの発端は、「昔の人の紡いだ言葉は名言、名作となっても、最近の人の言葉は名言、名作と言われて語り継がれるのだろうか」という疑問でした。
こういうふっとした疑問にこそ、価値があると急に躍起になって調べてしまいました…。
昔のコンテンツが支持されてきたのはなぜ?
まず前の文節
「昔の人の紡いだ言葉は名言、名作となっても…」
は
「昔の人の言葉や物語、寓話はどうやって伝えられたのか」
と言う疑問に転化しました。
昔の人の定義としては、中世〜近代をイメージしています。
例えばシェイクスピアの「リア王」(1604年〜1606年発表)が今だに上映されたりアレンジされているのは発表当時から根強い人気や、多くの人の心を揺さぶったからですが、それが一過性のブームに終わらず継続して人気のコンテンツとして消費されています。
それはなぜでしょう?
そうなるべくしてなった2つの根拠を考えました。
(ネット上だけでは詳細な参考文献などを引っ張って来られなかったことをご容赦ください)
根拠1:当時の限定的な情報伝達
根拠2:コンテンツ自体の影響力の高さ
根拠1:当時の限定的な情報伝達
当時は現代のように情報の流れる経路が複数あるわけではなく、限定的で情報伝達はせいぜい新聞、書籍などの紙媒体のもの、もしくは口頭による伝聞、いわゆる口コミぐらいだったのではないかと推測します。
これは現代でも言えることですが口コミは地道な割に成果のある拡散方法で、娯楽も少ない(であろう)当時はみんなが熱狂して楽しめるエンターテイメントだったのでしょう。
そのため、観劇に行った人は「すごくよかった!」と家族や親戚に伝える。
聞いた親戚が観にいってまた「すごくよかった!」と。
そんな感じで親から子、子から孫というように言い伝えのように伝わってきた結果、長く家族の共通言語のように伝わってきた、なんていうロマンのあるものだったらいいなと期待半分、真実半分くらいで考えていました。
その答えを探そうと色々と検索をしたのですが、答えは見つからず。
こういった類の研究は、ジャンルとしては民俗学に分類される事までは掴みましたが、成果は挙げれず。
ただおかげさまでオーラルヒストリーや口承文芸など色々な言葉を知ることができました。
…うーん、適切な検索ワードの選定が難しい。
根拠2:コンテンツ自体の影響力の高さ
純粋にコンテンツ自体の影響力が高いことも名言・名作と言われるゆえんだと考えました。
コンテンツ自体に共感できるポイントが多かったり、物事の真理のような内容が含まれているなど、そこに人々は引き寄せられ、またそのコンテンツの一部をうまく活用したりして自分の中に取り入れたりしてきたわけです。
名言や名作と言うものの内容にはマイノリティよりもマジョリティに向けた内容が多いはずです。
大衆に向けた言葉だからこそ多くの人から共感を得て、多くの人に支持されたのです。
口頭のみで、書籍などに残らない名言は多くの人の恣意的な判断もはさみながら形を変え、よりシャープに物事の真理をつくことで、さらに共感を得る。
こうして共感を得ることは汎用的であることと同義に近くなります。
その連鎖で現代まで伝わってきた、と考えます。
現代のコンテンツは将来も消費され続けるか
つづいて後半の文節、
「最近の人の言葉は名言、名作と言われて語り継がれるのだろうか」
という疑問は
「最近バズった名言、名作って将来まできちんと残るのかな?」
という疑問に転化しました。
この疑問が出ている時点で現代のコンテンツの消費スピードが「リア王」の時代とは全然比べ物にならないことになっているのだろうと考えました。
コンテンツが次々に消費され、その一つ一つをじっくり味わうこともない、だからこそ親子間で語り継がれることもなくただ過ぎ去った何かとしてしか残らない。
そういう人々から出てくる言葉もまた速いスピードで過ぎ去って「21世紀の名作はこれだ!」というようなものは何一つ生まれないなんてこともあるかもしれませんね。
また、人間側も昔よりも自身の感覚に対する鋭敏度というのは下がっていると思います。
生活が豊かになった分、日常の機微に気づけなくなったり、表現ができなくなったりしてきているのではないかと感じます。
だからどうした方がいいという大きな主張も何にもないのですが、そういうことに気付くだけでも少し変わってくるのではないでしょうか。
こう書いていてふっと思い出したのは夏目漱石の「こころ」で先生がいきなり道ばたで用を足したシーンです。
先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応えのあったようにも思った。また的が外れたようにも感じた。仕方がないから後はいわない事にした。すると先生がいきなり道の端へ寄って行った。そうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
先生はこういってまた歩き出した。引用:夏目漱石「こころ」
こういう機微をあえて書くセンスが、現代人(の私)からするととても新鮮に感じるものです(”やあ失敬”というセリフもまた粋を感じます)。
「こころ」は小学校時分に読んでとても心揺さぶられた小説です。
著作権が切れているため、青空文庫で文章が公開されていますので是非読んでみてください。
少々話はずれましたが、新しいテクノロジーにより、大衆の可処分所得をインターネットコンテンツから置き換えるものがきたら「インターネットこそが名作」なんて未来もくるかもしれませんね。
それはそれで楽しそうです。
それでは。
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